聖書
(117) “もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。”
「罪を憎んで人を憎まず」とは、古くから日本に語り継がれている言い回しですが、実に聖書の教えに通じるところがあります。神は私たち人間を深く愛していらっしゃいますが、私たちの罪とは決して妥協しようとはなさいません。それ故、ご自分のひとり子である『イエス・キリスト』を私たちの代わりに犠牲にしてまで、私たちの「罪の問題」を解決しようとされました。 「そんなに私たちを愛してくださっているなら、『罪あるままで』私たちを受け入れてくれたらいいじゃない。」と思われる方もいるかもしれません。しかし、それは本当の愛ではありません。 「大切なキミ」「そのままのキミが好き」などの絵本の著者としてしられる『マックス・ルケード』は、ある日の愛娘との体験を次のように描写しています。「やっとヨチヨチ歩きが始まったばかりの娘のジェナを連れて近くの公園へ行った。ジェナを砂場で遊ばせていると、アイスクリーム売りが通りかかったので、娘の大好きなアイスクリームを買ってやることにした。ところが、ちょっと眼を離した隙に、ジェナはせっせと口の中に砂を運び入れ始めていた。果たして私は、口の中に砂を一杯にしているような娘でも愛しているだろうか?もちろんだ!口の中に砂をたっぷり含んだこの子は、私の娘としての価値を落としているだろうか?そんなわけはありゃしない!では私は、娘が砂をむしゃむしゃと食べているのをいつまでも放っておくだろうか?そんなバカな!私はすぐさまジェナを抱きかかえて水道のところに連れて行き、抵抗する娘を制しつつ、次のように語りかけながら、口の中と周りとをきれいにしてやった。『私の愛する娘。ホラ、ちゃんと砂を吐き出しなさい。お父さんがもっとずっといいものをあげるからね。』」 私たちの神様も同じです。神が私たちから『罪(よくないもの)』を取り上げるのは、神様が意地悪だからなのではなく、私たちを深く愛しており、私たちに「もっと良いもの」を与えたいからなのです。