聖書
(88) “何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。”
キリスト教の教えと言えば、『愛』とか『罪の赦し』などということばが思い浮かぶと思いますが、一体この2つはどのような関係があるのか、考えたことがあるでしょうか? 「愛の反対語」は、「憎しみ」と考える人が多いようですが、実際は『愛』と対極にあるものは「無関心」や「自己中心」といったものです。ある人は「愛なしに与えることはできるが、与えることなしに愛することはできない」と言いました。愛とは、相手のために自分の時間や労力、財産、そして時にはいのちまでも与えさせるものです。 それでは『罪』とはなんでしょうか?『殺人』『盗み』『強姦』などの刑事上の罪もあれば、『偽り』『欺き』『裏切り』などの道徳上の罪もありますよね。面白いことに、聖書はこれらのことに加えて次のような「罪の定義」をしています。「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」 電車やバスの中でお年寄りや妊婦さんに席をゆずってあげないこと、あるいは、道端で苦しそうにうずくまっている人に手を貸してあげないことこそ『罪』だと言うのです。これらは相手に対する『憎しみ』から出ているのではなく、私たちの中にある『自己中心性』や『無関心な態度』から出ているのです。 聖書は私たちに「罪から離れるように」と強く勧めています。そしてそれは「愛に生きること」によってこそ可能になるのです。『愛』とは、何か感傷的なものではなく、また男と女がイチャイチャすることでもありません。自分が持っているものを、それを必要としている人に与えることです。そしてそれを実践する力は「愛である神」から注がれるのです。このお方と心のベルトを掛け合って生きるとき、私たちはもはや周囲の人々に対して無関心ではいられません。そしてこの神ご自身が、罪の力に縛られていた私たちを黙って見ていることができずに、人(イエス・キリスト)の姿を取ってこの世に来られたのです。