聖書
(79) “人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。”
「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」なぁんていう川柳を聞いたことがありますか?なかなか日本人の心理をついてますよね。『和』を重視するあまり、たとえそれが「悪いこと」だと分かっていても、つい周りに流されてしまう。でも実際は、「皆がやっているとしても、いけないことは『いけない』」わけだし、「誰もしていないとしても、正しいことは『正しい』」のです。何故そんな分かりきっていることを、私たちは実践できないことがあるのでしょう? 「ピア・プレッシャー」ということばがあります。この言葉は「人の目を恐れて、本来自分がなすべきことと違ったことをしてしまう様子」を表すときに使います。私たちが「人の目を恐れる」のは、単に『臆病』だからではなく、むしろ「それらの人々を喜ばせたいから」です。例えば、友だちを喜ばせたい人は、自分がしたくないことを頼まれたとき『No』と言えません。職場の上司を喜ばせたい人は、頼まれなくても、敢えて残業をして『勤勉さ』をアピールします。夫を喜ばせたい妻は、自分を押し殺して『従順さ』を装い、作り笑顔で耐えます。子供を喜ばせたい親は、子供に嫌われたり反抗されたりすることを恐れて、厳しくしつけることを軽んじます。しかし、これらの「誤った動機によるサービス」は短期間しか続かず、結果的として「担いきれない不満」を積み重ねることとなり、相手を喜ばせるどころか、取り返しのつかない『破局』を生み出しかねません。では、一体何が間違っているのでしょう?それは「喜ばせる対象」を間違えているのです。 ある信仰者は次のように祈りました。「神よ。私の口の言葉と、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。」 彼は自分が「人々に喜ばれること」よりも、まず「神に喜ばれること」を切に求めたのです。聖書が教える『神』は「正義と平和の神」です。私たちがこの方の前に「正しいことを正しい」とし、「誤っていることは誤り」とはっきり認めて、人の目を恐れず、その信じる道を大胆に歩むなら、神は私たちと人々との関係にも『真の平和』をもたらしてくださるのです。