神を信じて生きる者にとっての最もつらい試練は「反対者による迫害」ではなく、思わず「神様なぜですか?」と叫ばずにはいられないような状況に陥った時ではないでしょうか?
旧約聖書の時代の最も偉大な人物の1人である『モーセ』が、当時エジプトで奴隷として苦役を強いられていたイスラエルの民を、神の命令に従って脱出させようとした時、エジプトの王(ファラオ)は民を行かせるどころか、更なる苦役を民に課すようになりました。当然イスラエルの民はこぞってモーセに対し不平不満を並べ立てたのです。きっとモーセの心中は「神様、私はあなたの命令に従ってこの民を脱出させようとしたのに、どうして更なる試練をお与えになるのですか?」という混乱と嘆きに落ち込んだことでしょう。
私たちの信仰生活の中でも同様なことが起こります。「神様の導き(聖書のことば)に従ってここまで来たのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのか?」そんな時私たちが思い起こさなければならないのは「神の大いなるご計画は、私たちの小さな頭で想像する規模をはるかに超えている」ということです。神はこの後モーセとイスラエルの民のために、数々の恐るべき奇跡を行ない、最終的には「海を2つに分ける」という考えられないようなみわざによって、イスラエルの民をエジプトから脱出させたのでした。
私たちは喜ばしくない状況に直面すると、つい「神様、一体何やってるんですか!」と文句を言ってしまいがちですが、私たちがイラついている原因は、実際は『好ましくない状況そのもの』ではなく、「『今置かれている状況』と『自分が予想していたもの』とのギャップ」によるのです。私たちは「自分はこうしてちゃんと神様に従っているんだから、神様は私に何か(こんな風な)いい目を見させてくれるはずだ」と自分勝手に神様がしてくださるであろうみわざを決めてしまうのです。そして結果が願った通りじゃないと「神様のウソつき!」と言ってプイと背を向けてしまいがちです。
神はあなたより遥かに『気長』な方です。そして彼が望んでおられるのは、私たちが神を「自分が予想したとおりの結果を与えてくださる方」としてではなく、「私たちの思いを遥かに超えてみわざを行われる方」として知ることを求めておられるのです。
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