(663) “あなたがたは信仰によって救われたのです。…行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

 聖書の中心的な教えの1つに、「救いは行いによるのではなく、信仰による」というものがあります。今日はこのことをもう少し分かりやすく説明してみようと思います。  『ライフセイバー(溺れている人を救助する仕事)』をしている方から聞いたことがありますが、溺れている人を救出するには、溺れている最中に助けに行くのではなく、もがき疲れて沈んで行きそうになるまで待ってから救出するそうです。どうしてそれまで待つのかというと、必死にもがいている最中に助けに行くと、相手が無我夢中でしがみついてきて、その人を引き連れて泳ぐことが困難だからだそうです。なるほど、確かに理に適っている気がしますよね。  聖書に述べられている『救い』にも、これと共通している部分があります。人が自分自身を救おうとあれこれ頑張っているうちは、神が「救いの手」を差し伸べても、恐らくそれを振り払ってしまうでしょう。また多くの人々はその成長の過程で「ひと様に迷惑ばかりかけてないで、自分の事はちゃんと自分で何とかしなさい」と言われながら育てられていますから、「神様に救っていただくにしても、自分でもそれなりの努力をしなければ…」と思うわけです。実際、多くの『宗教』と呼ばれるものは、『救い』に様々な条件を付け、修行やお布施その他の「人間的な貢献」を要求することが多いですし、そのような教えの方が人々にも「受け入れやすい」と言えるのかもしれません。  しかし聖書は断固として「救いは行いにはよらない」と言います。その理由は「神はご自身に対する『私たちの全面的な信頼』を望んでおられる」からです。「救いの条件」として少しでも「私たちの貢献度」が加わると、『救い』にあずかった人々は必ず高慢になります。聖書によるならば、神が最も嫌う人間の性質は、この『高慢』なのです。しかも実際聖書が教える『救い(永遠のいのち)』は、人間の努力で勝ち取ることができるほど「安っぽいもの」ではないのです。「努力すれば神からの救いがいただける」と考えることは、実は神に対する冒涜でしかないのです。

(662) “うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし…”

 「後悔先に立たず」ということわざがありますよね?「物事が終わってから悔やんでも、取り返しがつかない」ということを表すのに用いられます。ではどうすれば良いのでしょうか?「全ての事に気を付けながら生きましょう」という事なのでしょうか?もちろんその通りではあるでしょうが、それはとっても大変ですよね?  私たちの子供たちがまだ幼い頃の我が家のモットーは、「Learning Experience」でした。「失敗を恐れるな。そこから何かを学べば良いんだから」ということです。子供たちが幼い頃に日本を離れ、様々な国々で暮らしていたので、その国の文化が分からず、家族でよく『失敗』しました。そんな自分たちを励ますための発想でしたが、お陰で我が家の子供たちはとても生き生きと育ってくれました。  聖書は、「イエス・キリストは私たちの罪の身代わりに十字架にかかって、それらの罪の代償を支払ってくださった」と教えます。もちろんこの『キリストの十字架』は、「『天地創造の神』と『私たち』との間を隔てていた『罪の壁』を取り除くため」であったわけですが、それと同時に「私たちが過去の失敗や不運な出来事に捕らわれず、いつも新たな心で前向きに歩むため」でもあります。イエス・キリストの代償の故に、もはや神は私たちの過去を問いません。ですから、「自分にはあんな過去があるからもうダメだ」などということは決してありません。  神は私たちの目を『前』にだけ付けてくださいました。私たちは「後ろ向きに生きる」ようには造られていないのです。ですから、イエス・キリストを信じることによって「うしろのものを忘れ」、明日を守り導かれる神様を見つめて歩んで行きましょう!

(661) “神の恵みを無駄に受けないようにしてください。”

 多くの「宗教」は何らかの『救い』という概念を提供していますが、そのほとんどは「~からの救い」というものです。ところが聖書が教える『救い』は「~から」というよりは、むしろ「~のための救い」といった様相が強いように思われます。もちろん聖書の救いも「罪・死・さばき」からの救いという側面もありますが、それ以上に「それは神との関係が回復されるためであり、またそれによって私たちが地上で『神の栄光』を輝かせるためである」というのが聖書の中心的なメッセージです。  神は私たちを、ご自身の『栄光(素晴らしさ・偉大さ)』を地上で表現する存在としてお造りになり、またこの地上に置かれました。ところが私たちは神から離れて自分勝手な生き方へと走り、結果「神の恵みや祝福」を味わうことができなくなってしまっていました。そんな私たちを神は憐れんで、もう1度ご自分の許に取り戻すために、私たちの「罪の代価」を「罪なきひとり子イエス・キリスト」に身代わりに負わせることによって、私たちとの関係を回復してくださいました。ここまでがいわゆる「~からの救い」の部分です。そしてこの『救い』を受け取ることで甘んじてしまっている人もいるわけですが、それは「神の心を全然理解していない」というものです。  神は人間を、私たちが考えているよりも遥かに「尊く・優れた存在」として創造されました。私たちは神との関わりの中でまさしくイエス・キリストが歩まれたような「愛と力に満ち溢れた人生」を生きることができる者としてお造りになったのです。これを知らずに「~からの救い」だけに甘んじてしまうならば、それは「せっかく与えられている大いなる可能性にフタをして生きること」になってしまうわけです。  いわゆる「宗教」は、これらの『優れて偉大な人生』を「救いの条件」にしてしまって、「これこれの修行を積んだら救われる」とか「これだけのものをささげたら救われる」などと教えますが、それらは「救われたからこそ可能になる生き方」であって、自分の力で「救いの条件」を満たすことができる人は1人もいないのです。

(661) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 多くの方々は「誰かの力になりたい。助けになってあげたい。」と思っておられると思います。ただ日本に住む日本人の方々は結構「出過ぎた真似はしたくない」という気持ちがブレーキになって、なかなか実際には『人助け』をできずにいるのではないでしょうか?  私の住むニュージーランド・クライストチャーチには、日本からの訪問者・留学生・ワーキングホリデーの若者などが毎年大勢押し寄せます。恐らく私が新しく知り合う人の合計は1年で100人近くいるのではないでしょうか?そんなわけでついついお世話をすることが多くなります。そんな中で気付いたのは、皆さん初めは「あまり知らない人に一方的にお世話になる」ということに抵抗があるようで、本音は「助けてもらえれば有難い」のに、「いやぁ、申し訳ないから…」とおっしゃるんですよね。そんな時に私がいつも申し上げることは次のことです。  「よく聞いてくださいね。現在ここクライストチャーチに住んでいる方々も、初めは皆さんのように『新参者』だったんです。でも当時既にクライストチャーチに住んでいた方々から親切にしていただき、『いつかは自分も後から来た人たちを同じように助けてあげよう』と感じていたんですよ。私もその1人です。ですから今は甘んじてその親切を素直に受け取って、やがて自分がこちらでの生活に慣れた頃に、新しくやってきた人たちを助けてあげてくださいね。」  私たちは皆、まず『愛されること』が必要です。そしてその経験が「愛したい!」という動機付けへとつながります。神は私たちがご自身に似た者(すなわち『愛する者』)となって欲しいと願いつつ、まずひとり子キリストを通して「愛して」くださいました。ですから、自分自身が『誰かの力になってあげられる存在』となるために、「誰かから助けてもらうこと」を遠慮なく受け取れる人になりましょうね!

(660) “主はあわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。”

 聖書の神を表現することばで、よく『恵み』とか『あわれみ』とかが用いられますよね?どちらの言葉からも「優しくて寛容」といった印象を受けますが、一体この2つの言葉には何か違いがあるのでしょうか?実は厳密に言えば、あります。  『恵み』というのは、別の言い方をするならば「無償の」という意味で、更に深い意味を付け加えるならば「本来受けるに値しない人が受けることができる」という祝福です。ですからある意味私たちが不完全な者でありながら神様から受ける祝福はすべて『恵み』と呼ぶことができるわけです。この世に生を受けることも、太陽や酸素が与えられていることも、日々活動する力や知恵が与えられていることも、全て「神の恵み」によっているわけですね。  一方『あわれみ』というのは、「本来私たちが受けなければならない罰や災難を免れる」という祝福です。いうなれば「見逃してもらう」ということですね。これはしばしば『弱者』に対して注がれるものかもしれませんね。生活保護であったり、被災地支援だったり、子供や孫の無邪気ないたずらを大目に見たりなど、私たちも日常で経験することがあるのではないでしょうか?きっとこれらは「神のかたちに似せられて造られた」という人間に潜在的に備わった性質でもあるのかもしれません。  そしてこの神の『恵み』と『あわれみ』が最も顕著に表されたのが、「イエス・キリストの十字架」です。神に対する私たちの不信仰や不従順、そして神がこよなく愛しておられる『人々(自分自身を含む)』を不当に扱ったり、傷つけたりしてしまう私たちが、当然受けるべき『罰』をキリストが代わりに受けてくださったことによって、私たちは神の前に「赦された者」となり『神の子』として受け入れられる。これこそ究極的な『恵み』であり、神の『あわれみ』の表現です。  人間が作り上げた『宗教』のほとんどは、「自分の力や努力・修行によって『救い』を勝ち取る」というものです。しかし聖書は「人がそのようにして『救い』を勝ち取ることができるなら、そのような人は必ず、神が最も嫌う『高慢』に陥る」と警告しています。本来『救い』というものは、神の『恵みとあわれみ』によって一方的に与えられるものなのです。

(659) “わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。”

 通常ある活動や役割に長く携われば携わるほど、その活動や役割において熟練し、自信が付き、他に頼らずに自分で切り盛りできるようになるわけですが、面白いことに『クリスチャン』として生きる人生においては、その逆である場合があります。どういうことかと言うと、『クリスチャン』として「神との関係」の中で生きることが長くなればなるほど、自分の弱さに気付かされ、また「正しさや愛情深さ、そして聖さにおいてもっと成長したい」という願いも強まるにつれ、「自分の力では無理!神様の助けがもっと必要!」というようになって行くわけです。  神様を知らずに生きる人生においては、「向上心の目安」は大抵『自己満足レベル』、またはせいぜい「周囲に満足されるレベル」なわけですが、クリスチャンにとっての『向上心』は、「神に造られた作品としての完成レベル」を目標としています。クリスチャンになったばかりの頃はこのイメージはぼんやりしていますが、神様との歩みを重ねて行くに従って明らかにされて行き、ついには「これは自分の力ではどうしようもない。でも神様はこの『ご自身のご計画』を成し遂げられるために力を与えて下さる方だ!」という信仰が与えられ、自分自身を神の力強い御手に明け渡し、『自分を通して現される神のわざ』を体験する者とされて行くのです。  神はこのような「自分自身の真の『弱さ』に気付いた者」を通して、ご自身のみわざを現されるお方なのです。

(658) “高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。”

 私がまだ聖書やキリストと出会う前は、『悪魔』と聞くと、「ホラー映画の世界」または「しっぽの先に弓矢の先のようなものが付いた、マンガの虫歯菌のようなもの」というイメージでした。ところがキリストを出会って『霊の目』が開かれてからは、自分や人々に対する悪魔の働き(主に『誘惑』)を見分けられるようになってきました。  悪魔(聖書では『この世の神』とか『暗闇の世界の支配者』と呼ばれている)は確かに実在します。しかしホラー映画の中でのように「無理矢理人間を操って殺戮を行わせる」というようなことはごく稀で、主に私たちの『欲』につけ込んで誘惑し、犯罪を犯させたり、人生を破壊したりします。いわゆる「魔が差す」というような感じですね。  聖書によると「悪魔の起源」は、ある非常に美しい天使が、そのあまりの美しさに「自分は神に取って代われるのではないか」と思って、3分の1の天使たちをそそのかして天の世界において反逆を起こし、神に落とされて『悪魔(他の天使たちは「悪霊」)』となった、と言われています。それ故悪魔は神に対し強い恨みの念を持ち、常に神のみわざの邪魔をしようとします。とりわけ悪魔は、「神が愛してやまない『人間』」に対して激しい嫉みを抱いており、人が神の祝福を受けることを妨げようとします。それは何か力づくでバリアを張るとかではなく、私たちの欲につけ込んで「嫉み」を起こさせたり「高慢」に陥らせたりすることによって、私たちの心が神から離れるように仕向けるわけです。  人は自力で悪魔に対抗することはできません。ある意味悪魔は私たちよりも遥かに賢くて優れているからです。悪魔の策略に対抗する唯一の道、それは「自分の人生を神に明け渡し、イエス・キリストを信じることを通して与えられる『神の国の権威』を用いること」によってです。そういう意味でも、私たちの人生にはどうしても『イエス・キリストによる救い』が必要なのです。

(657) “失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。”

 「肉体において体験した記憶」というものは、身体に記憶されるのではなく、実は脳に記憶されるそうです。つまり、何度も何度も繰り返し練習したことは「身体が覚えている」と言いますが、その「身体が…」という概念自体が脳の働きだそうです。例えば「朝起きたら顔を洗って歯を磨く」などの習慣的行動から、「ピアノやバイオリンを繰り返し練習する」などの訓練に至るまでしっかりと脳に記憶されていて、たとえ一時的な記憶喪失などになったとしても、それらの記憶は失われずに覚えられていて「自然と体が動く」ということになるそうです。  『1万時間の法則』という言葉を聞いたことがあるでしょうか?心理学者によると、どんなことでも1万時間繰り返し練習し続けるなら、そのエキスパートになれるそうです。このことは「どんな人でも、努力して練習し続ければ、その道に熟練できる」という希望を与えると同時に、「あることに熟練するために、決して『近道』は無い」ということでもあるわけですね。ですから『才能』という言葉に惑わされないようにしましょう。「努力を継続できること」こそ、真の『才能』と呼べるのかもしれません。  これらのことは、私たちの「信仰生活」にも応用できます。信仰において成長するためには『祈り』『聖書通読』といったことは不可欠ですが、そのような新しい習慣は「イエスを信じた人には自動的に備わる」といったものではありません。初めのうちは自分で意識して「祈り」、また「聖書を開いて読まなければ」なりません。しかしあきらめずにそれを継続するならば、やがて牧師や宣教師たちにも劣らない「信仰の高嶺」に辿り着くことができます。これもまた、神が私たち1人1人に等しく与えて下さった『才能(賜物)』と呼べるのかもしれませんね。

(656) “弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者(Christian)と呼ばれるようになった。”

 皆さんは『クリスチャン』と聞くと、どんな人物像が思い浮かびますか?「良い人たち」「宗教かぶれ」「非国民(って事はないか!)」などなど、様々な印象があることと思います。  『クリスチャン』を英語で書き表すと「Christian」であり、この末尾の『ian』は「Musician」「Magician」などにも使われる、いわゆる『専門家』または『それで生計を立てている』みたいな意味です。そして前半の「Christ」は『キリスト』のことであり、すなわち『クリスチャン』とは「キリストに依存して生きている人々」ということになるわけです。ある方々には「かなり変わった人たち」のように聞こえることでしょうね。  実際は『クリスチャン』の中にもいろいろなタイプがあります。例えば日本の『仏教徒』のように「元々生まれた家やお国柄がそうだから」という理由で『クリスチャン』を名乗る人もいれば、「何となく響きが良いから」という理由の『自称クリスチャン』もいます。でも『本物のクリスチャン』は、「自分にとって『イエス・キリスト』はすべてである」と自覚して日々を歩んでいます。正に『キリスト』が人生の中心となっている「Christian」なわけです。  この天地万物(私たち人間をも含めて)をお造りになられた『創造主なる神』は、愛と恵みに満ちた良いお方です。ですからこの神としっかりつながって生きるならば『良いもの』に不足することがないわけですが、残念ながら私たち人間は生まれながらこのお方をないがしろにした「自分勝手な生き方(罪)」に陥っています。数々の宗教は何とか神との関係を回復させようと様々な「修行や努力」を重ねるわけですが、私たち人間がどう逆立ちしても『神の基準』に達するはずがありません。そのギャップを埋めるために神ご自身が遣わされた「救い主」が『イエス・キリスト』なのです。この『イエス・キリスト』を通してのみ、私たちは「神からの良きもの」を日々受け取って生きることができるわけですから、必然的に『イエス・キリスト』が人生の興味や関心事の中心になるわけです。まあ結果として周囲の他の人たちにとっては少々異質な存在になっていくのもやむを得ないでしょうね。  ただ、そういうわけで『クリスチャン』は、他の人たちが体験していない「神からの良きもの」を受け取りながら生きているわけですから、自然と生き生きとして、また他の人たちにも優しくなっていくわけです。

(655) “訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。”

 この天地を造られた神は、全知全能であり、私たちをこよなく愛してくださっている良いお方です。ならばどうしてこの世には『試練』というものが存在するのでしょう?私たちの人生には、つい「神様、あなたが私を愛してくださっているなら、どうしてこんな目に遭わなければならないのですか?」と言いたくなるような出来事がたくさん起こりますよね?そんな時は神様が「ちょっと席を外してしまっている」のでしょうか???  では逆に、私たちの人生が終始「ぬるま湯に浸かったような日々」だったとしたら、どうでしょう?私たちの人格はどのようになって行くでしょうか?恐らく「成長意欲の無い」「互いに助け合う精神の無い」「忍耐のかけらも無い」甘えん坊のような大人になってしまうのではないでしょうか?そして恐らく、神様を求めることもなく、当てもなくさまようような日々を送ってしまうに違いありません。  冒頭に書いたように、私たちの神は、「全知全能であり、私たちをこよなく愛してくださっている良いお方」ですから、私たちの人生に襲ってくる試練や困難は、全て「神がそうなることを許された範囲内」で起こっているのです。すなわち、私たちがそのような試練に遭遇することを通して、神は何か優れた麗しいものを私たちを通して(または「私たちの内に」)生み出そうとしておられるのです。  ですから、試練や困難が襲ってきた時には、「神様どうしてこんなことが?」と愚痴をこぼす代わりに、「神様、あなたはこの出来事を通して、私にどんなことを教えたいと願っておられるのですか?」と問うようにしてみるのが良いのです。