(670) “堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。”

 私は若い頃(20代の頃)に「自分の人生における『神のみこころ』とは何だろう?」というようなことをよく考えたり祈り求めたりしていました。そして60台になった今「私は『神のみこころ』に沿って生きてきただろうか?」などと考えたりするわけですが、そのような考え方の根本には、「人生において『神のみこころ』という何か特別なイベントがある」というような固定観念があるのだと思います。  果たして『神のみこころ』とは、そのようなものなのでしょうか?もしそのようであるなら、あるクリスチャンたちは「人生において多くの『神のみこころ』を成し遂げた成功者」であり、別のクリスチャンたちは「ほとんど『神のみこころ』を成し遂げられなかった落第生」ということになります。  私は、『神のみこころ』というものはそのような「特定の行ないや出来事」ではなく、むしろ「日々の生き方」ではないかと思います。イエス・キリストは十字架にかかられる前夜、その恐ろしさにたじろぎながら「父よ、この杯(十字架にかかること)を私から取り除けてください。しかし私の願いではなく、あなたのみこころの通りにしてください」と祈りました。この「自分の願いもあるけれども、神が別のことを望んでおられるなら、敢えてそちらの道を歩もう!」という、神の前に明け渡した、神に信頼し従おうとする姿勢こそが「『神のみこころ』を生きる」ということなのだと思います。  もしそうであるなら、『神のみこころ』を行う機会は、「ある特定の時、特定の人に対して」ではなく、いつでも、どこでも、誰に対してでも表現することのできる、大変身近なことになるわけです。さあ、今日も周囲をよぉく見渡しながら、神に信頼しつつ思い切って『神のみこころ』を実践して行きましょう!

(669) “あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。”

 『神との正しい関係』を築こうとする時の1つのカギとなる態度は、『謙遜』です。『謙遜』と聞くと、多くの日本人の方々は「自己卑下」のようなイメージを持つようですが、それは大きな間違いです。「謙遜な態度」の1つの例は、「正直さ」です。本当は自分にできることなのに「できません」と言うことは、謙遜でもなんでもありません。「できることはできると言い、できないことはできないと正直に認める態度」、これこそが正しい『謙遜』です。  神様はすべてをご存知な方なので、この方の前に嘘をついても全く意味がありません。神はあなたの優れた点とだらしない点を全て知った上でこよなく愛してくださっているのですから、この方の前でカッコつけたり隠し事をしたりする必要はないのです。ただ「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』と言う事」こそが『謙遜な態度』です。  また、「自分には大抵のことはできるのだから、神なんて必要ない!」というのは、神が最も嫌う高ぶった態度であり、『謙遜』とは対極にあるものです。『神』というお方は、「自分の足りない点を補ってもらう存在」ではありません。『神』は「この天地を創造され、私たち1人1人を愛をもって形造り、日々最善を施しておられる、圧倒的な力と愛に満ちた、他のすべての存在を超越した存在である」という点で『神』なのであって、このお方の前に私たちは「全く無力で極小の存在」なのです。そんなお方に対して、「アンタなんか必要ない」とか、「オレの人生はオレのものだから、関わらないでくれ」などと言ったり、また真の神以外のもの(お金や地位やスマホとか?)を神のように崇拝したり頼ったりするのは、大いに神を悲しませる態度です。  真の神だけを『神』とし、この方の「愛と誠実さ」に頼りつつ、1日1日を全力で「自分らしく」生きることこそが、神との関係を築いて行く上で大切な、『謙遜さ』なのです。

(668) “主が良くしてくださったことを何1つ忘れるな。”

 「病気になると、健康であることのありがたさが良く分かる」と言いますよね?確かに「苦しみを味わうこと」は、私たちに日頃当たり前に感じていることを感謝することを思い起こさせてくれます。ここにいくつかの例を挙げてみましょう。  ①あなたが今朝目を覚ました時「割りと健康だな」と感じたとしたら、あなたは余命告知を受けている何百万もの人々よりも感謝できるはずです。②もしあなたが今までに戦場や深刻な飢え、孤独な獄中生活や拷問の苦しみなどを経験したことがないなら、現在それらの真っ只中にある数億人の人々よりも感謝できるはずです。③もしあなたが何の迫害や逮捕の危険、また殉教などの危険性なしに教会の集会に集うことができるなら、世界の数十億人の信仰者よりも感謝できるはずです。④もしあなたの家の冷蔵庫に食べ物があり、タンスに着るものがあり、屋根のある場所に寝られているなら、あなたは世界の75%の人々よりも経済的に恵まれています。⑤そして、もしあなたがお財布か銀行口座にお金を持っていたり、家のどこかに小銭を貯めていたりする余裕があるなら、あなたは世界中の裕福なトップ8%の中にいるのです。  もちろん、これらのことが必ずしも「人の幸福を決める条件」ではありません。ただ少なくとも、あなたの状況には「感謝できる要素がある」ということを忘れないでいただきたいのです。

(667) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 キリスト教と、他のいわゆる『宗教』との大きな相違点の1つは、恐らく「救い」と「良い行い」との関係にあるのではないでしょうか?ほとんどの『宗教』は「救いやご利益」を受けるために何らかの「行ない」を要求します。「修業を積む」「一定金額のお布施をする」「戒律を守る」などなど。このような「条件付きの救い」は、この世の様々な習慣や人付き合いなどにも深く根付いているので、理屈として納得が行くものなのでしょうね。  では『キリスト教の救い』は、どう違うのでしょうか?英語のことわざで「Christianity is not Religion but Relationship with God」(キリスト教は宗教ではなく、神との関係)と言われているように、聖書で強調されていることは『神との関係』です。人間関係においても「OOしてくれたら、~してあげる」というような「ギブ・アンド・テイク」の関係もありますが、より親しい間柄になればなるほど「無償でしてあげる」ということが起こってきます。親子関係や夫婦関係、また親友同士などがこれに当たります。いわば「『~だから』の愛」と「『~にもかかわらず』の愛」の違いです。そして神が私たちとの間に求めておられる関係は、この後者に当たります。神は、私たちが神に対して興味も関心も示す前に、私たちを一方的に愛し、私たちとの関係を回復するために、ひとり子イエス・キリストを「和解のいけにえ」として十字架において犠牲にされました。そしてこの神の驚くべき愛に対する応答として、クリスチャンたちは誰に強制されることもなく、自ら進んで「神に喜ばれるような良い行い」に励むようになるのです。つまり、クリスチャンたちの『良い行い』は、「救いを勝ち取るため」にしているのではなく、「救いをいただいたから」しないではいられなくなっているわけです。  最近では夫婦の離婚率も上昇傾向にあり、また子育てにおける『ネグレクト』なども問題になっています。本来「無償の愛」が実践されるべき場が歪んできてしまっているのです。これらを本体の姿に回復させるためにも、私たち人間には『神との愛の関係』が何が何でも必要ではないでしょうか?

(666) “あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。”

 英語で「One day at a time」という表現があります。いわば「その日その日に集中して生きる」という意味です。私たちはつい先の事を心配し、目の前の事に集中できないことがあります。もちろん将来のために備えをしたり、計画を立てたりすることがいけないとは言いませんが、その事ばかりを気に掛けて、肝心の『今』をおろそかにしてしまっては元も子もありません。  神は私たち人間を「1秒先も分からない存在」としてお造りになりました。人は将来のことが不安になり、占いに頼ったり、怪しげなオカルトに手を出したりする事があるわけですが、どれ1つとして確かなものはありません。神が私たちに将来のことをあらかじめ知らせないのは、神ご自身に頼らせるためです。  神は良いお方であって、私たち1人1人を深く愛しておられます。神は常に私たちの最善を願っておられますが、それは決して「いつも物事がうまく運んで、何の苦労もない人生」という意味ではありません。神は、私たちが与えられている能力をフルに発揮できるようにと、時に試練を通して私たちを鍛えてくださるのです。けれども決して私たちを見捨てたりすることはありません。人生の試練は、「神の不在」を意味するのではなく、むしろ神は「試練の中でも共にいてくださる」のです。  神の1番の願いは、「私たちとの深い信頼関係」です。もちろん『関係』というものは決して「強制的」には構築されません。双方の「自由意志」によって形造られていくものです。「神との信頼関係」は、私たちの態度によって決まります。そして私たちが、「神様、あなたが私を愛し、常に私のために『最善』を願ってくださっているので、私は先のことを思い煩うことなく今日という日を全力で歩みます!」という思いで日々を歩んで行く時、『神との信頼関係』は少しずつ深められていくのです。

(665) “神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知だからです。”

 ほとんどの人は「善意をもって正しく歩みたい」と思っているのではないかと思います。と同時に「本当はもっと正しく優しく生きたいのに、なかなかそれが思うように実践できない」というジレンマを感じておられるのではないでしょうか?一体なぜ私たちは自分が願っているような「正しく優しい人生」を生きられないのでしょう?恐らく2つくらいの理由があると思います。  1つ目は、私たちの『弱さ』です。「根本的な『自己中心性』」と言っても良いかもしれません。「今日から正しく生きよう!」と決心したとしても、忙しかったり、疲れてしまっていたり、「これくらいなら…」と、つい魔がさしてしまい、本来願っていた生き方からズレたことをしてしまうわけです。  もう1つは、そもそも私たちの『良心』が間違っていることがあるからです。私たちは知らず知らずのうちに「自分の良心」というものを「善悪を判断する絶対的な基準」としてしまっていますが、私たちの『良心』は決して「絶対的なもの」ではなく、自分の生い立ち、周囲の情報や価値観などによって微妙に歪められてしまっているのです。ですから「良かれ」と思ってやったことが裏目に出て、かえって他人を傷付けてしまうことがあるのです。  ある人々は(たとえクリスチャンであっても)「自分の良心の声」が『神様からの促し』であると思い込んでいますが、それは大きな勘違いです。聖書は「神は全てをご存知な方で、私たちの『良心』よりも大きい」と教えています。ですから、私たちが願っている「正しい善意に満ちた人生」を歩んで行くためには、「私たちの良心」を超えた『神の助け』が常に必要なのです!  聖書は「人生を正しく歩むための指針を教える道徳規範」ではありません。「神から離れ、本来神が願っておられる生き方ができなくなってしまっている私たち」を、もう1度ご自分との関係を回復し、本来の「神の栄光を輝かせて生きる人生」へと招き寄せるための、いわば神から私たちに向けられた『心の叫び』なのです。

(664) “愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。”

 最近の精神医学的調査によって分かったことは、『愛』と『恐れ』という2つの精神的要素は全く別の系統から発生していて、私たちの日々の生活において、これらの2つの精神的要素が同時に影響を及ぼすことはないのだということです。  専門家たちの調べによると、『愛』という要素は私たちが生まれた時から私たちの内面に備えられているのに対し、『恐れ』というものは、生まれてからの環境や出来事などを通して「学習される」要素なのだそうです。またこのような、生まれた後から「学習された」否定的な精神的要素は、それらが私たちの内側に働くたびに「精神的に害となる毒素」をまき散らし、私たちの精神世界を破壊しようとするのですが、驚いたことに、私たちが『愛』を動機として行動している時、『恐れ』を含めたこれらの「否定的な精神的要素」が少しずつ消滅して行くのだそうです。それだけでなく、私たちがこの『愛』を活発に働かせることによって、私たちの脳内に「肯定的な変化」が起こり、健康的な思想を生み出す化学物質が活発に分泌されるようになるそうです。  これらのことは本当に最近の研究によって明らかになったことなのですが、聖書には2千年以上も前から既に「愛は恐れを締め出す」と書かれていたわけです。全く驚かされますよね!この天地万物をお造りになり、私たち1人1人を創造された神は、これほどまでに素晴らしく、深い愛を込めて私たちを形造ってくださったのです。私たちも、この神の愛を受け取って、互いに愛し合うことにより、精神的に健康な日々を過ごしましょう!

(663) “あなたがたは信仰によって救われたのです。…行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

 聖書の中心的な教えの1つに、「救いは行いによるのではなく、信仰による」というものがあります。今日はこのことをもう少し分かりやすく説明してみようと思います。  『ライフセイバー(溺れている人を救助する仕事)』をしている方から聞いたことがありますが、溺れている人を救出するには、溺れている最中に助けに行くのではなく、もがき疲れて沈んで行きそうになるまで待ってから救出するそうです。どうしてそれまで待つのかというと、必死にもがいている最中に助けに行くと、相手が無我夢中でしがみついてきて、その人を引き連れて泳ぐことが困難だからだそうです。なるほど、確かに理に適っている気がしますよね。  聖書に述べられている『救い』にも、これと共通している部分があります。人が自分自身を救おうとあれこれ頑張っているうちは、神が「救いの手」を差し伸べても、恐らくそれを振り払ってしまうでしょう。また多くの人々はその成長の過程で「ひと様に迷惑ばかりかけてないで、自分の事はちゃんと自分で何とかしなさい」と言われながら育てられていますから、「神様に救っていただくにしても、自分でもそれなりの努力をしなければ…」と思うわけです。実際、多くの『宗教』と呼ばれるものは、『救い』に様々な条件を付け、修行やお布施その他の「人間的な貢献」を要求することが多いですし、そのような教えの方が人々にも「受け入れやすい」と言えるのかもしれません。  しかし聖書は断固として「救いは行いにはよらない」と言います。その理由は「神はご自身に対する『私たちの全面的な信頼』を望んでおられる」からです。「救いの条件」として少しでも「私たちの貢献度」が加わると、『救い』にあずかった人々は必ず高慢になります。聖書によるならば、神が最も嫌う人間の性質は、この『高慢』なのです。しかも実際聖書が教える『救い(永遠のいのち)』は、人間の努力で勝ち取ることができるほど「安っぽいもの」ではないのです。「努力すれば神からの救いがいただける」と考えることは、実は神に対する冒涜でしかないのです。

(662) “うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし…”

 「後悔先に立たず」ということわざがありますよね?「物事が終わってから悔やんでも、取り返しがつかない」ということを表すのに用いられます。ではどうすれば良いのでしょうか?「全ての事に気を付けながら生きましょう」という事なのでしょうか?もちろんその通りではあるでしょうが、それはとっても大変ですよね?  私たちの子供たちがまだ幼い頃の我が家のモットーは、「Learning Experience」でした。「失敗を恐れるな。そこから何かを学べば良いんだから」ということです。子供たちが幼い頃に日本を離れ、様々な国々で暮らしていたので、その国の文化が分からず、家族でよく『失敗』しました。そんな自分たちを励ますための発想でしたが、お陰で我が家の子供たちはとても生き生きと育ってくれました。  聖書は、「イエス・キリストは私たちの罪の身代わりに十字架にかかって、それらの罪の代償を支払ってくださった」と教えます。もちろんこの『キリストの十字架』は、「『天地創造の神』と『私たち』との間を隔てていた『罪の壁』を取り除くため」であったわけですが、それと同時に「私たちが過去の失敗や不運な出来事に捕らわれず、いつも新たな心で前向きに歩むため」でもあります。イエス・キリストの代償の故に、もはや神は私たちの過去を問いません。ですから、「自分にはあんな過去があるからもうダメだ」などということは決してありません。  神は私たちの目を『前』にだけ付けてくださいました。私たちは「後ろ向きに生きる」ようには造られていないのです。ですから、イエス・キリストを信じることによって「うしろのものを忘れ」、明日を守り導かれる神様を見つめて歩んで行きましょう!

(661) “神の恵みを無駄に受けないようにしてください。”

 多くの「宗教」は何らかの『救い』という概念を提供していますが、そのほとんどは「~からの救い」というものです。ところが聖書が教える『救い』は「~から」というよりは、むしろ「~のための救い」といった様相が強いように思われます。もちろん聖書の救いも「罪・死・さばき」からの救いという側面もありますが、それ以上に「それは神との関係が回復されるためであり、またそれによって私たちが地上で『神の栄光』を輝かせるためである」というのが聖書の中心的なメッセージです。  神は私たちを、ご自身の『栄光(素晴らしさ・偉大さ)』を地上で表現する存在としてお造りになり、またこの地上に置かれました。ところが私たちは神から離れて自分勝手な生き方へと走り、結果「神の恵みや祝福」を味わうことができなくなってしまっていました。そんな私たちを神は憐れんで、もう1度ご自分の許に取り戻すために、私たちの「罪の代価」を「罪なきひとり子イエス・キリスト」に身代わりに負わせることによって、私たちとの関係を回復してくださいました。ここまでがいわゆる「~からの救い」の部分です。そしてこの『救い』を受け取ることで甘んじてしまっている人もいるわけですが、それは「神の心を全然理解していない」というものです。  神は人間を、私たちが考えているよりも遥かに「尊く・優れた存在」として創造されました。私たちは神との関わりの中でまさしくイエス・キリストが歩まれたような「愛と力に満ち溢れた人生」を生きることができる者としてお造りになったのです。これを知らずに「~からの救い」だけに甘んじてしまうならば、それは「せっかく与えられている大いなる可能性にフタをして生きること」になってしまうわけです。  いわゆる「宗教」は、これらの『優れて偉大な人生』を「救いの条件」にしてしまって、「これこれの修行を積んだら救われる」とか「これだけのものをささげたら救われる」などと教えますが、それらは「救われたからこそ可能になる生き方」であって、自分の力で「救いの条件」を満たすことができる人は1人もいないのです。